女性が求める出会い

女性が口をそろえて言う言葉に運命と言うものがある。運命なんて後からでなければ言う事ができないことをいいことにここぞとばかりに使われているのだ。

これは私個人の意見になるが、運命という言葉が嫌いな人間の第一人者とされても良いだろう。何もやみくもに嫌いだと断言しているわけではない。たとえば運命には逆らえないという文句がある。そのその逆らう事ができないのは当たり前である。未来のことがわかるにんげんなんて世界中に限られている。その人がいうなら「そうか、なるほど・・・」と納得をせざるを得ないかもしれない。

既に運命から回避されている

運命は後付けだ。例えば回避することができなかった自己に遭ったとしても「事故に遭う運命だった」と言っている。女性が素敵な男性に出会えばたちまち目をぐりぐりと光らせて「彼とは運命の出会いなの」と軽く発言するのだ。運命は怖くもあるし、素敵にも感じることができる見えない神のような存在になりつつあるのだ。

中には運命なんて物体的証拠もなければ科学的に判明されていないとされているにもかかわらず何が楽しいのか「運命を信じる者は救われる」と神のように称えるものまででてくるのだ。社会はこれほどまでに怖いのか。と私は憎悪を感じえることさえある。

運命の使い方

運命の出会いと言う言葉をどうしても使いたいのならせめて自分で何らかの行動を起こしてからにしてほしいと思う。未来は決まっていない。決まっているのは方向性だ。その道を作っているのはあなた自身。その道がどっちに曲がるのかはあなたの行動と思考そして環境で変わる。しかしこの作用そのものが運命であると言っている場合には、是非そのままじっとした状態で素敵な出会いを待っているといいだろう。

わだかまりが解けない状態で運命を信じていても結局はその言葉に締め付けられてしまっている。出会いがどこからやってkるのか解った風な口をきいている。矛盾が生じた時には運命を突き放す。出会いの結果がむちゃくちゃになってしまった場合には運命を亡きものにする。出会いとはそれほど硬いものであり、何者でもその壁をぶち破ることができないものなのだ。

ここで言いたいことは、運命と言う言葉を信じるのなら、言葉だけに頼らずにその性質をもっと詳しく調べてみてはどうだろうかということ、自分が一体運命に何を思っているのか、そして運命そのものを動かしているのは自分だという事を知ってもらいたいと思う。

このページの先頭へ

出会いを学ぶ力